7月14日 滋賀男声合唱団 信州岡谷市JAMCA

画像未リンクです

南弘明作曲「月下の一群 第一集」の演奏発表にあたって。

この組曲に真正面から取り組んだのはずいぶん久しぶりです。
そして今回滋賀男声合唱団のみなさんとご一緒に練習を重ねるごとに、
私には新しい発見の連続でした。
学生ころから何度も耳にしているにもかかわらずです。

月下の一群といえば、この組曲を1977年に委嘱し初演した
崇徳高校グリークラブを導いていた(故)天野守信先生を思い出します。
大学の先輩でもあり、私をとても可愛がってくださいました。
「月下の一群 第二集」の初演の時は、
私をわざわざ広島まで招いてくださり、
出来立ての楽譜を手に高校生にレッスンをする機会までお与えくださいました。
レッスンのあと繁華街の「酔心」でおもてなしくださり、
私にとって生まれて初めての「松茸の土瓶蒸」を交わしながら、
楽しい音楽談義させていただきました。
のちに、先生の姪御さんを大阪芸大で教えることになったのもご縁でした。
(その姪御さんはいま大阪のプロオーケストラのフルーティストとしてご活躍です。)

今回のたくさんの新しい発見を一言で済ませるなら
「見えていなかったことが見えてきた」ことによります。
それは、あたかも若いころに読んだ夏目漱石の作品を
年を重ねてから読み返した時の感動と同じでした。
堀口大學が1925年(大正14)に発表した訳詩集に散りばめられた「エスプリとペーソス」は
人生の機微を知った滋賀男声のみなさんとご一緒だったからこそ、
机上のものではなく、心に深く感動を覚えることができました。
学生合唱団では気づかないことでした。

南弘明は1934年生まれですから
この組曲を発表したのは77年は43歳の作品ということになります。
この男声合唱曲集の出版、録音に際し
「恋の喜びやはかなさ、青年らしい陽気さ、美しく弱いものへのやさしさなどを、
それらの詩の一行一行に感じながら創り上げた」
「いずれも青年らしい感受性が豊かに表現されているものばかりである。
この五つの詩によって私は「青春の歌」を書きたかったのである。」と述べておいでです。

壮年期の南正明のこの言葉にわが意を得たりです。
青春の歌は青春期の人たちには歌えない、ということになりませんか。

第一曲 フィリップ・シャヴァネックス「小曲」はたった四行の詩。
美しいピアノ伴奏と息の長い旋律は、まるで繊細に揺れ動く心の葛藤。
私はこれを「ガラス細工のようにきらきらしていて、もろいもの」と解釈しました。

第二曲 ポオル・フォル「輪踊り」は軽やかな三拍子。
「人々全てが連帯すれば」という夢想を
私は旧制高校生が声高に歌う応援歌ととらえました。
学生のフランス文学・芸術にたいする「憧れ」を照れ隠すためにも、
バンカラ風に歌いあげたいと思っています。
ある資料にみられる≪世界中が技術では「つながった」かに思えて
本当は隣人の顔を知らない今日にこそ歌われるべき詩なのかもしれない。≫
という記述にも賛同を覚えます。

第三曲 フランシス・ジャム「人の云うことを信じるな」はおどけた調子。
若い女性に「恋を信じるな」と繰り返します。
それが「片意地で」「醜く」であることが大切なんです。
若者でなく「頭の固い」おじさんだからこそ、
乙女に言い聞かせることができるのです。
それが乙女にはあまりにも強い断言だからこそ
ほのかな想いは遠くへ追いやられ「乙女の祈り」は変調し狂ってしまう。、
この構図こそフランス特有のペーソスじゃないですか。

第四曲 アンドレ・スピイル「催眠歌(海よ)」は擬人化した海への呼びかけ。
男声四部の絡まりあいがもっとも顕著に現れる曲で、
その音響効果で絶え間ない潮の満ち引きを表現したようかのよう。
昼間の海、闇の海、両方に対峙して問いかける青年の姿に、
真理をおい求めたころの己の姿を重ねます。
なんどきもどんな時も「そこにあり続ける」海を前に、
己のちっぽけさに気づきます。

第五曲 ポオル・ヴェルレエヌ「秋の歌」は甘く切ない感傷。
情緒たっぷりに秋の印象を濃厚に歌い上げる。
人生の荒波や逆風にもまれてきた男たちが、
それでも「俺はここに立ち続けている」という頑なさが感動をもたらすのです。
そしてさーっと散る。これこそ男の美学じゃないですか。

信州での滋賀男声の「月下の一群」をどうかお楽しみください。

参考サイト Vol.2 小池さんの研究コラhttp://masuraoglee.web.fc2.com/column/column002_02.html

 

合同曲「琵琶湖周航の歌」について。

亡父が酔って上機嫌になると決まって口ずさんでいたのが「琵琶湖周航の歌」でした。
戦時中の「産めよ増やせよ」政策のもと、
9人兄弟の7番目の子として生まれた父は、
尋常小学校を出ると、「口減らし」に満州の叔母の家で過ごし、そこで徴兵。
戦時中の混乱の世、勉強が好きだったにもかかわらず、
まともに教育を受けることはありませんでした。
私たち3人の子供に対して生前の父の口癖は
「お前たちに財産は残さん。しかし教育だけは受けさせてやる」でした。
そんな父だったからこそ森繁久弥が歌う「琵琶湖周航の歌」を
旧三高のシンボルとして羨望の思いをもって歌っていたように思います。

そんな父の後姿をみて育った私達、僕は私学の大学でしたが、
弟は京都大学で学士と修士を、東大で博士課程を収めました。

諏訪中学から三高に進学した琵琶湖周航の歌の作詞者小口太郎を敬い、
秘蔵ともいうべき編曲版を指揮する機会をお与えくださった
やまびこ男声合唱団の皆様と、
数年間にわたり琵琶湖周航の歌コンクールの審査員にと
お声掛けくださった滋賀県今津町の音楽関係者に
心からの感謝を申し上げます。
信州岡谷と滋賀がお互いに大切にしてきたものが
融合する現場に居合わすことができる導きに感謝しつつ、
亡父をしばし偲びながら、指揮したいと思います。