河内長野 古典の日 講演原稿のメモ書き

11月4日ラブリーホールでの河内長野合唱文化祭のイヴェントとして「古典の日」の講師を務めます。講演内容のメモ書きです。

私ごとき、西洋音楽を生業としている者が「古典」を語る資格はないのですが、折角の機会を与えていただいたので、少し「古典と西洋音楽}という観点から、日ごろから考えていることを整理したいと思います。

まず最初にお手元にはございませんが、この歌をお歌いください。

「滝廉太郎・花」のピアノの前奏に続いて聴衆が歌う。
ーー日本で最初の合唱曲と言われています。
今までの日本伝統音楽伝承でない西洋音階のハーモニーを伴ったわが国最初の合唱作品です。
明治政府が導入した「西洋音楽教育」の初めての結実の作品です。
これまでの伝統音楽の記譜法ではなく、五線紙に音符という西洋音楽の記譜法にのっとった最初の合唱曲だったのです。

続いて荒城の月をお歌いください。

この2曲の共通項は何でしょう。
両方とも滝廉太郎の作品です。彼のことは後で述べることにします。

歌詞をいいながら皆で指を折ってみてください。そうです。どちらも七五調の歌詞ですね。
これは伝統文芸の中では、今様形式と呼ばれる謡物(うたいもの)の一つで、
この七五調の音の配列の歌はなんと平安時代の『古今和歌集』(こきんわかしゅう)に集められているのです。天皇の命により912年に編集された勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)です。

『古今和歌集』(こきんわかしゅう)の七五調の歌詞(今様形式)にみられる音の流れ、言葉のリズムの美意識が、とおく平安時代から現代の我々に脈々とDNAとして私達の心の中にあることを誇りをもって注目したいと思います。

明治時代の文明開化以降に作られた唱歌に多くみられます。
童謡「どんぐりころころ」
文部省唱歌「われは海の子」

平安時代から続くこの五七調をはじめとする謡物(うたいもの)は、日本の伝統音楽(邦楽)における一ジャンルで、長唄・地唄・小唄・都々逸などが含まれ、一方の「語り物」と呼ばれるジャンルには浄瑠璃があげられます。

これらの唱法の特徴を大きくのベると、
口を大きく開けない。母音母音の連結、そのために過度な子音を避ける・・・などがあげられます。
だから言葉がわかりずらいのです。
浄瑠璃やお能、日舞での長唄など初めて耳にした時にが言葉がわからず、
戸惑うのも無理ありません。
加えてこれらには西洋音楽ではない音律・・全音でも半音でなもない伝統的な微妙な音程の幅のとりかたも
伝統音楽の美意識の一つです。

伝統音楽の呂旋法と律旋法というのを中学時代に習いました。
四七抜きという音階です。ハ長調でいうとファとシを飛ばすのです。

呂旋法はラから始め、「わらべ歌」や「民謡」に多いので「民謡音階」と言われた。

律旋法はソから始めるのです。「君が代」や古い民謡で用いる「律(りつ)旋法」になるのです。明治のころに歌われた「蛍の光」をはじめとするスコットランドやアイスランド民謡の替え歌がすんなりと受け入られたのも、それらが「ヨナ抜き音階」であったからです。

もう一つ興味深い47抜き音階があります。それは「律旋法」からミファラシドという「都節(みやこぶし)音階」が生まれ、この音階を転回してラシトレ゙ミファソの第四音レと第七音ソを抜いたヨナ抜き短音階となる。哀愁を帯びたこの音階は、演歌に不可欠の音階として広く愛好されています。
ピアノで音階を弾いてもらいましょう。

とても日本の響きです。

しかし、これは西洋音楽様式にのっとったピアノの調律であって正確な伝統音楽の音階ではないのです。
例えば、「君が代」を歌ってみましょう。
皆が歌う音階は西洋音楽の正確な全音・半音ではないでしょう。
これも我々の美意識であるわけです。
お正月に宮中で行われる歌会始めをテレビでご覧になった方も多いかと存じます。
極端に引き延ばされた母音の流れ、伝統的な音程の抑揚など、
様式美にのっとって、見事に歌われる様に感心します。

またまた脱線します。
実はこの伝統的な音程・・全音半音でなく微妙な音程の幅が日本人の美意識であることが、
西洋音楽にのっとった合唱の場合困った要因となります。
正確な全音半音を取らないとハモラナイ。
例 夏の風物詩 金魚。さをだけ売り。豆腐屋さんのウリ声など。
ぜひ合唱を楽しんでいらっしゃる皆さんはこの点に注意を払っていただきたいのです。
日本の伝統音楽には、3度や4度や5度などでハモルことはなかったのです。
雅楽の笙や、お琴のハモリ、お三味線のハモリは明らかに西洋音楽のそれとは違うわけです。
「ふるさと」を口をあけないで息の流れだけでうたってみる。

日本人の美意識である音程が西洋音楽のハーモニー・メロディーを作るうえで
ことさら注意を払わなくてはならないことに加えて、
少し子音のことを考えてみたいと思います。

あえいおう、という母音の響きを大切にするそのために子音の扱いには吟味が必要です。
子音を発音するたびにせっかく美しく響かせた口の容積や形状が変わってしまうという
危険性と隣り合わせということを肝に銘じるべきです。

私達は音楽の3要素を学校で学びました。
メロディーの美しさ、ハーモニーの色彩感、リズムのや躍動感。
これらの集合体の音楽はグローバルな全人類が共有する喜びです。
音楽の3要素には言葉は入りません。
言葉のない器楽曲に感動し、
言葉を理解できないドイツやイタリアオペラに感動するのは、音楽の3要素が織り成す彩です。
私はよくこんなことを尋ねます。もし音楽の3要素にあえてもうひとつ加えるならばなんでしょうと。
私はこう答えます。「息遣いと息の流れ」。
前述の日本の伝統音楽には西洋音楽の3要素はありませんが、「息遣いと息の流れ」は大切な表現方法です。

これは音楽ばかりでなく、演劇にも共通する空間芸術と考えます。

ボニージャックス、ダークダックス、デュークエイセスの競演で気づき。

母音の流れ息の流れをまず大切にすれば、過度な子音を発音しなくても、
詩情を十分につたえられるという彼の共通した主張に触れることができたのは無類の喜びでした。
母音を邪魔しない子音の吟味。これはプロ歌手が作品に向かい合うときに最も時間とエネルギーを割いています。
話を滝廉太郎と荒城の月に戻します。

大政奉還後に樹立した明治新政府は富国強兵と文明開化の名のもとに、
身分・性別に区別なく国民皆学を目指した教育改革に乗りだしました。
音楽教育にあっては1879年に音楽取調掛を開設し、1890年に東京音楽学校 (旧制)が開校されます。
この年に入学したのが15歳の滝廉太郎でした。
同時に開校した東京美術学校がもっぱら伝統的な日本画中心の研究であったにもかかわらず、
音楽学校はドイツ音楽をはじめとする西洋音楽の導入一辺倒主義が中心で、
日本の伝統音楽は民衆の世俗的な娯楽であり、アカデミズムでないとの理由で片隅に追いやられました。
そんな教育環境の中で滝廉太郎は多感な時期を過ごします。
作曲とピアノ演奏でめきめきと才能を伸ばし、1900年にいま皆さんがお歌いくださった「花」と「荒城の月」が高い評価を得て、翌年の1901年(明治34年)4月、日本人の音楽家では2人目となるヨーロッパ国費留学生として選ばれることになります。
そしてライプツィヒ音楽院(設立者:メンデルスゾーン)に入学します。
彼がなぜライプツィヒを選んだかは後述します。彼が22歳のことです。

若き才能あふれる滝廉太郎。国からも未来を嘱望されていた彼ですが、
「花」も「荒城の月」も私には西洋音楽の導入一辺倒の明治政府の音楽教育に対して
彼なりの精一杯の反旗をひるがえした作品ではないかとの思いが捨て切れません。

ハンガリーは自国の遅れた音楽教育改革にと、まず着手したのが、
コーダイ・バルトークによる全国津々浦々に残るの伝承音楽を五線紙に書き写すことからはじまりました。
しかし日本の伝統音楽は世俗的で、アカデミズムでないとの理由で、
特に音楽教育の現場では自国で生まれ育んだ伝統音楽を軽んじ、
彼は怒りさえ覚えたように思えるのです。
だからこそ『古今和歌集』(こきんわかしゅう)から続く七五調の歌詞(今様形式)を手にした彼は、
なみなみならぬ意欲をもって作曲に取りくんだと確信するのです。

ところで「荒城の月」のモデルの城は?といのがよく話題になります。

モデルとなった城とされる場所は全国に5ヶ所あります。そのうち3つをご紹介すると、
大分県竹田市の岡城址・・・作曲者=滝廉太郎の出身地。

歌詞を書いた土井晩翠さんのの故郷である宮城県仙台市の青葉城。
かの伊達政宗(だてまさむね)が、もともと「千代」と書いて「せんだい」と呼んでいたこの地を、
「仙台」に書き改めたものだという事で、歌詞に出てくる「千代」は、仙台を暗に示しているとも言われ、
またここに登場する雁が、東北から北陸にかけての地方で越冬する渡り鳥である事も有力視される一因です。

会津若松鶴ヶ城。・・・白虎隊が自害を遂げた飯盛山には、白虎隊記念館があり、
その創立者が、「荒城の月作詞48周年記念音楽祭」なる物を企画し、
招かれた晩翠が、おもむろにこうスピーチしたのです。
「今、皆さんがたが歌ってくださった私の荒城の月の基は、皆さま方のあの鶴ヶ城です」。と。

これでこの論議は決定的な結論に達してしましました。しかし「荒城の月」のモデルの城は?はさほど大きな課題ではありません。滝廉太郎も土井晩翠もこの国を、そして、この国の歴史を愛する者の一人として、日本の各地に残る古城すべてに当てはまるように、その歌詞を作り曲を作ったに違いありません。だからこそ、歌詞だけでは、どの城かが特定できない仕上がりになっているのでしょう。全盛期も、荒廃した姿も、ともに美しい日本の城・・・。 人が、その姿に感動するのは、この国に天下泰平の世を造り上げんと命を賭けた戦国時代の先人たちの勇姿を、そこに見る事ができるからなのです。

自分が感動したように、日本のすべての人が、日本の各地の古城を見て感動してほしい・・・晩翠と廉太郎のそんな思いが伝わってくるような気がします。

こんな美しい歌が音楽の教科書から消えるのは残念です。楽しいだけではない「日本の心」が刻み込まれています。どうか、その「心」を大切に、いつまでも歌い継がれて欲しいものです。

滝廉太郎は23歳で結核のため亡くなりました。結核という理由で、彼の作品や遺品のほとんどが焼却されたとのことです。彼の無念を思うと心が痛みます。しかし、彼にとって大きな救いが20年ほど前に発見されました。それはカトリック教徒と東方正教徒の融合を目指すエキュメニカルな活動をするベルギーの修道院で「荒城の月」にロシア語の歌詞がつけられて「ケルビム賛歌」という名の聖歌として歌われていることがわかったのです。『荒城の月』の旋律に潜む不思議な静けさと平安に、修道院の人に「たましいの深い動き」と、祈りと愛を感じとったいうことです。滝廉太郎が『荒城の月』を書いたのはドイツ留学前。このころ彼は東京麹町のイギリス聖公会で洗礼を受けていたのです。「彼がキリスト教に入信を志していたころにこの曲が作られたのは興味深く、イエスの愛に触れたとき、今まで経験したことのない平安、心の安らぎを感じたのではないか」と言われています。彼がわが国2番目の国費留学生として選んだ渡航先がライプツィヒ。そこは音楽の父、宗教音楽の大家、ヨハンセバスチャンバッハの街だったからなのです。

またまた余談ですが、滝廉太郎の親族には熱心なクリスチャンがいました。彼の妹もそうでした。その孫がTBSのニュース番組のメインキャスターを務めたジャーナリストの筑紫哲也(ちくし てつや)。彼もまたクリスチャンでした。筑紫自身はかつて「私には音楽の才能がないので、『私の大叔父が瀧 廉太郎』であるということを非常に戸惑っている」と述懐しています。しかし彼は早稲田大学時代はグリークラブの一員として私達と同じように合唱を愛した人でした。

ここにこの曲の真理を2つ見つけることが出来ました。一つは「西洋音楽の導入一辺倒の明治政府の音楽教育に対する密やかな反旗」。もう一つはクリスチャンとして「世の平安、心の安らぎの曲」。今一度そのような思いを心に覚えてこの曲をご唱和ください。

最後に現在の日本でも、明治政府の西洋音楽一辺倒の音楽教育に反旗を翻している教育組織があることをご存知ですか。

宮内庁の楽師の養成機関です。楽師さんたちは皇室の公式行事では雅楽を担う一方、欧米の国賓をお迎えしての晩餐会では燕尾服を着てオーケストラに変わるのです。雅楽で使われる専門的な楽器の習得のほかオーケストラの楽器を一つ、それにピアノとソルフェージュが課されるとのことです。

その時どきに変わる政権が決める方向性に迎合することなく、宮内庁は頑なに伝統を重んじる。これもまた興味深いことです。

つたない講演にご傾聴たまわり、ありがとうございました。