ジョイントコンサートを振り返って。(3) いただいたエッセイ

(1)匿名HT様

昨日は滋賀男声の北澤様と皆様方のご配慮で家内と一緒にびわ湖ホールにお伺いしました。女声合唱団とのジョイントということで滋賀男声も張り切っておられましたね?

貴兄の「月下の一群」は声の艶も伸びも声量も素晴らしい。言葉もppでもffでもはっきりわかりました。演出も小粋で合唱と振り付けとそして貴兄のスイング(後ろ姿)がとても素敵でした。横に座っていらっしゃった南弘明先生も満足そうなお顔で演奏をお聴きでした。

そして「みずうみの歌」は110名を超す混声合唱の迫力と貴兄の丁寧な指揮で久しぶりに聞く混声版でした。貴兄の編曲で男声版に魅力を感じていたこの曲ですが混声はやはり混声でいいものだと感じました。特に「湖国から・・・」のダブルソロは男女の息もあって心地よい演奏でした。また終曲は大編成の混声合唱の魅力で貴兄のたっぷりとした指揮に合唱が答えていて一人であの映像を思い浮かべながら楽しませていただきました。家内も久しぶりに聞く混声の終曲に20数年前を思い出していたようです。   それにしても滋賀男と2つの女声合唱団は滋賀の誇る合唱団であることは間違いありません。こんな素敵な演奏会を是非とも恒例化して欲しいものです。貴兄のますますの活躍をお祈りしております。ありがとうございました。

(2)フラワーコーラス Mさま

遅ればせながら、演奏会おめでとう!!

夢のジョイントコンサートの美しいチラシを手にした時から、湖に春がやってくる頃、滋賀を代表するこの3団による演奏会、どんな構成で、どんな曲が聴けて、会場はどんな空気になるんだろうと一杯の期待を胸に抱いていました。

琵琶湖も演奏会にエールを送ってくれているかのように麗らかな春の陽気の日になり、会場もやはり4階席まで埋まるような大盛会のうちに演奏会が始まりました。

彦根水すまし、栗東カレンデュラの2団は、おかあさん全国大会で滋賀にこの2団ありと伊藤光子先生の目指される女声合唱の音色、世界を作り上げてきた合唱団で、ステージに登場されると今回はこんなイメージなんだとまずは目に訴えかけるオリジナルの衣装、そして難易度の高い女声合唱曲を、いともナチュラルに歌い上げられる鍛え抜かれた発声とハーモニー、その作り出される世界にすっと引きづり込まれてしまう素晴らしい合唱団で、個性輝く女声合唱界において、30年以上の歴史を経て、日本を代表する女声合唱団として君臨されていて、今回のびわ湖ホールでの演奏は、この会場での演奏を目指してトレーニングされたであろう期待通りの女声合唱の魅力を存分に発揮された素晴らしい演奏でした。

私は大大大ファンである滋賀男声合唱団がこのジョイントコンサートで、この2団と対等できるこれぞ男声合唱というぞくぞくする演奏をきっと届けてくださる、とりわけ昨年の滋賀合唱祭でも、また信州JAMCAでも名演として素晴らしい評価を受けられた「月下の一群」の生演奏をようやく聴けることを心から楽しみにしていました。今回の演奏は、ステージに現れた時から、なにかきりっとした空気が漂い、さあ演奏を届けるぞ、聴いてくださいと言わんばかりの風格があり、どんどん演奏が進むにつれ、妥協を許さないこの曲への思いがひしひし伝わってきて、富岡先生の心の底にある楽曲へのポリシーが皆さんの中にしっかり浸透していて、先生の発せられる指揮のひとつひとつに、団員だれもが真剣に向かい合って、一つの美しい輪になって、声もぐんぐん響き、もう、がががが~~~~んと打ちのめされました。

堀口大學がフランスから持ち帰った繊細で情熱的な訳詩、その魅力をこんな素晴らしい作品に創り上げられた南弘明先生、この珠玉の作品たちを富岡先生と滋賀男声合唱団は、自分たちの年齢、自分たちのテイストで歌い表現されて、その音色は大変格調高く、男のロマンと哀愁に満ちて、特に「海よ」と終曲の「秋の歌」は最高峰の演奏で、会場には皆さんの中に漲るこの曲への思いが明確に伝わって、体の芯の所まで歌声で満たされた思いでした。

今回の滋賀男声合唱団の「月下の一群」は世々に残すべき名演であると思います。打上げ会では、南先生自らも指揮されて「秋の歌」を演奏されたとか、きっと滋賀男声の演奏に大感激されて、自分の嬉しい思いを皆さんと共有なさりたかったのではないでしょうか?

合同曲の選曲も見事で、滋賀男声の皆さんも演奏会で取り上げられた鈴木憲夫先生の「ほほえみ」、そしてかの「みずうみの歌」、この作品は男声合唱版への編曲を青島広志さんとご苦労重ねられて実った作品で滋賀男声合唱団が愛し続けてこられた作品、今回はオリジナルの混声合唱で、びわ湖ホールで、高らかに歌い上げられて、最後の「びわ湖よ~~~」が今でも頭にエコーしているほど、感動的な演奏でした。

アンコールも富岡先生がずっと大事に育ててきておられる「小さな幸せ」と伊藤光子先生の「夕焼け小焼け」で、もっともっと演奏を聴いていたいと腰をあげるのがさびしいような本当に心満たされた思いでした。

今回のグレードの高い演奏を聴かせてもらって、滋賀男声合唱団の実力、合唱への姿勢、どんとレベルアップされて、刺激どころか私たちはこんなにぬるくていいのだろうかと反省の思いの方が一杯で、いつかいつかこんな素敵なコンサート、私たちにもチャンスをもらえる時があるかなぁと憧れながらも、力つけなくては、お相手もしてもらえないなと個人的には内心置いてきぼりにされたような寂しい思いでもあります。

来年2015年は、滋賀男声合唱団も20周年となられるのでしょうか?急成長をされ、益々合唱への情熱を増し、実力をつけてこられて、来年2月の定演も魅力あふれる演目で、今から大変楽しみにしています。

私たちも来年は5年に一度の記念演奏会です。毎回毎回の真剣な練習の積み上げがいかに大事か、志を高くもって、常に私たちを輝かしてやろうと努力を惜しまず、叱咤激励してくださる富岡先生の指導にひっしでついていきたいと願っています。(時々は私なんかあかんたれなんで、心折れるときもあるんですが、先日のような素晴らしい演奏を聴かせてもらうと、富岡先生の御力、滋賀男声さんの頑張りに、甘ったれたこと言っていてはいけないな、こんな立派な指導を受けられることは本当に幸せなことなんだから、皆でもっともっと前進していかなければと自分を戒めています。)

富岡先生、滋賀男声合唱団、益々の発展を心から応援しています。これからも男声合唱の魅力、年を重ねたからこそ表現できる魅惑の歌声、情熱を、世の中に届け、力を与えてください。

(3)上記(2)に対する団員Aさんからの返信

ジョイントコンサートでの滋賀男声の出来にお褒めくださり、ありがとうございました。

今回の「月下の一群」の富岡先生の取り組みは見事であり、練習での入れ込みようはこれまでにないものでした。正確に言うと昨年の6月に入ってから(JAMCA演奏会は7月半ばでした。)、突然変わりました。テンポ感が安定し、音楽の深みが断然増して自信に充ちて、歌う私たちの心、魂を引き込んで、私たちは安心してすべてをお任せしてまるでブルックナーやワーグナーの満ち溢れた豊かな響きの中に浮かんでいるような、そういう「境地」の練習でした。JAMCAの演奏が終わり、今年1月に再開した練習では”もはや私の大好きなブルーノ・ワルターが晩年臨時編成のコロンビア交響楽団に短い、的確な指示をだして、音楽に心を吹き込み輝かせる”そんな光景を重ねながらの「月下の一群」の練習、そして本番でした。ですから、私達は大した歌唱能力、実力もないのに、いつのまにか実力があるかのように歌ってしまっていたのです。まさにTOMIKEN MAGIC の世界なのです。でも富岡先生に、挫折せず、よくついていったものです。このことをマーちゃんに褒めていただいたと受け止めたいと思います。

私達滋賀男声の目標は、MAGICを見破り、MAGICではない本物を富岡先生と創りだしていかれている「フラワーコーラス」さんなのです。断然そうなのです。富岡先生のマーちゃんへの返信メールにある言葉は、本当です。富岡先生ご自身が言っておられるわけですから。『男はうそばっかり言う』けれども、これは本当に本当です。滋賀男声の最大の課題は、「MAGICには種も仕掛けもある」ということをまず全員が強く認識して前提とし、その「種と仕掛け」を皆で解明しあい、良く理解して身に着ける努力と研鑽を行い、一日も早く魔法をといて、本物になることなのです。

それで、マーちゃんのお褒めのほとんどは、富岡先生の音楽力のことだと思うのですが、富岡先生の音楽力は以前から素晴らしいのですが、私はこのところもう数段高いところ、深いところ、それがとても自然で、所謂『円熟』の域に達せられ、真の『マエストロ』になられたと私は強く感じておりますが、いかがでしょうか?もっと前から『マエストロ』!と怒られそうですね。

滋賀男声でいうと一昨年10月に「シューベルトのミサ」を演奏しました。あの頃から、何か富岡音楽が確固たるものの域に入りだされ、「フォーレのレクイエム」ではそれが完成され、先生の確信の深いところに落ち着かれたように思います。ジョイントでの「月下の一群」は私もマーちゃんと同じで第4曲目と5曲目は飛び切り秀逸で、第3曲目も含めて、北村協一、福永陽一郎の音楽を超えたと強く思い、富岡先生にはそう申し上げました。

今回、名指導者の伊藤光子先生の指導も受けて、その音楽の特徴をあえて比較すると伊藤先生の音楽は絵画でいうとバロック期から写実派のあたりの感覚にあるような気がしました。そうすると富岡先生の音楽は絵画でいうとフランス印象派、とくに今回の演奏はモネ・ルノアールの絵画に近い感じを抱きました。ヨーロッパの音楽家でいうとドビッシー、フォーレの音楽に近く、バーンスタインの振る マーラーの9番の音楽と同じ感性にある、と歌っていてそう思いました。(マーラーの9番のバーンスタインの後期の演奏による音楽だけに感じられるものです)。マーラーの9番は混とんとした中から強い諦め(実はその繰り返す諦めテーマは実は強く生きたい、生きていこうというマーラーの本心ではないかと個人的に勝手に思っています)で終わる曲なのですが、バーンスタインの演奏は、とても東洋的で、けしてヨーロッパ的にすべてをクリアーな音にせずに、神秘的で宗教的で、その沈みゆく音楽は決して沈みゆくものではなく、浄化されて確信が見えだしてようやく安定した安らぎの世界に進みゆく、そんな音楽感、世界観があると思うのです。それはチャイコフスキーの6番の終わり方も実はそういうものではないか、不安の中から脱出して安定した安らぎを強く求める、悲しみではない、私には「新生」の勇気をもたらしてくれる音楽に聞こえるのです。

今回の富岡「月下の一群」の第4 ・5曲は、この指揮者の心の奥にあり、表現されようとしている音楽というのは、私にはそのように思えて歌っていました。5曲目の「秋の歌」は、男声合唱では多田作品「草野心平の詩から」の終曲「さくら散る」も同じなのですが、悲しみの最後に、曲の終わりで、その生きていく勇気、安心して進みゆける輝きを予感させ導く和音で締めくくられます。この音を聞いて、それまで歌ってきた音楽が、ふっと、やっとこさ安住の場所におちつくのです。

録音の音源は聞いていませんが、あのステージで、あのホールで歌い、響いていた音楽は私にはそう聞こえていました。関係者で、改めて富岡先生に感謝とお祝いの席をもうけたいものです。

追記BY KEN
身に余るお言葉の数々、ありがとうございます。これらのお言葉を励みに、努力を重ねていこうと思います。