元八幡市長・京都府会議員 明田功先生を偲んで

明田先生アメリカ留学を終えてもすぐに音楽活動だけで、というわけにはいかなかった。そんな折、洛星高校の関係者が経営する予備校と塾で英語を教えることになった。先生方のほとんどが洛星高校から京大卒、という経歴の優れた頭脳集団でした。そこで教務主任として講師指導も担当していたのが明田功先生でした。農学博士という学位もお持ちでした。小学生から高校生までどの教科もOK、授業も面白いと生徒からの人気もすごかった。

何ということでしょうか。今年の2月に、当時の女子中学生から30年ぶりにお手紙が舞い込んできました。その中で明田先生のことがこのように綴られていました。
「明田先生も 小学生での一生忘れられない先生のお一人です! 早速 先生の記事やツイッターを2時頃まで読み~ おかげで昨夜は南京都学館の様々な夢を見ました。明田先生の顔写真を発見してもうそのまんま!懐かしくて叫んでしまいました。 当時から先生のてっぺんは髪の毛が淋しかったので? 髪の両サイドのボ リュームが減っただけで。 私は、先生の大ファンで セサミストリートのカウント伯爵に似ているので、切 り抜きを渡したことがありました。 明田先生が、理科の授業で細胞壁の話になった時、人間には細胞壁は無い~という話 から「本当は人体の勉強がしたかったのに どうしてもかなわず、結局、植物の科に入ったが、 今でも人体のレベルの学問がしたいんだ… 」と悔しそうにぼやかれていたのも覚えて います。  当時、明田先生は独身でおられたので「きっと塾の先生やと、給料が安いから結婚できへんのちゃうか~」 などと、小学6年の我々女子どもが好き勝手言ってたのです、ホントに失礼極ま りなく…。  明田先生のツイッターから、4人のお子さんに、お孫さんまでおられることも分かり もう70歳になられたのですね(@_@;) 自分が50なのだから仕方ないのですが …。 私が小6前の春休みに、勝手に母が入塾を申し込んでおり、嫌々怒りながら行き始めたところが、 明田先生の真顔で非常に面白可笑しく説明され、かつ浸み入るように分かる授業テ クニックにたちまち魅了され 学校より塾の授業の方が楽しくなり、 当時の南京都学館は、教えのプロ集団と言うか明田先生も 富岡先生も一般の人と何か違う、勢いやオーラが溢れ人を惹きつ ける特別な方でした! やはり、それぞれそのオーラのまま、さらに大きな世界で御活躍だったんですね。 明田先生や、富岡先生がずっと教えておられたら、今頃東進ハイスクー ル並みの規模になっていたのでしょう。 やはり、指導者の力量で、同じ教科書でも生徒の伸びが全く違います。」

私はこの手紙を第2日赤の病床にいた先生にお届けしました。「よく覚えているもんだな」としみじみと、嬉しそうに読み進められていました。

余談ながら、奥さまの昌子さまとの出会いも、この塾でのことでした。昌子さまは先生の教え子でもあり、のちにこの塾で事務職としてお務めだったのです。

この塾が予備校として学校法人化されてまもなく先生はここでの職を辞され、紫野・船岡山のご実家、京田辺、宇治の小倉、そして八幡市で自ら塾を立ち上げて、理想の教育の場を求めつつ、経営者としても手腕を発揮されました。私といえば、大阪芸術大学から指揮法の講師としてお声掛けいただき、プロとしてなんとか独り立ちできる環境を得ました。お互いに別々の道を歩み始めてまもなく、突然、明田先生が京都府会議員に立候補という話が飛び込んできたのです。政治家としてはアマチュアなのに?と思いながらも選挙事務所に一升瓶掲げて陣中見舞いをと出かけました。しかし残念なことに選挙事務所まであとわずかというところで、明田先生が窓から身を乗り出して手を振る選挙カーとすれ違うことになってしまいました。このすれ違いから20数年、年賀状のやり取りだけで、府会議員、八幡市長時代はお会いすることはありませんでした。いや先生の政治家としての激務の日々をお邪魔してはならぬと自重したのでした。ただ一度、向日市長の久島さんと明田先生が同席した折に、私の話が出たようで、二人して代わる代わるお電話でお話くださいました。久島さんは私が立ち上げた長岡京市民管弦楽団のメンバーだったのです。

公職から解放され、久しぶりにご自宅に招かれました。開口一番「昌子と一緒にでかけたヨーロッパのアルバムを見てよ。」と膨大な量の写真を拝見。それはヨーロッパ各地の名所ばかりでなく、アルプスでのトラッキングの写真も多く含まれていました。「昌子には何もしてあげれなかった。罪滅ぼしのつもりで、思いっきり二人で楽しんできたよ。」という語る先生のおやさしいお顔は忘れられません。京都府会議員、八幡市長時代のお話など全く話題にはなりませんでした。先生の中では「燃えつくした政治家」として、もはや過去の話など門外漢の私を相手に口にしたくなかったのでしょう。「これからはゆっくり過すよ。ある大学からのお誘いもあるけれど・・・」

にもかかわらず今年の1月に突然「城陽の木津川運動公園に来てよ」との電話。広大なハラッパでした。「この公園の指定管理者の理事長になった。ここでブラスバンドのフェスティバルをしようと思う。アイディアをだしてプロデュースしてよ。」と。

5月の当日は前日までの激しい雨もあがり、晴天のもと3000人もの動員があり、初めてのイヴェントとしては大成功でした。しかしこの日も先生は病床から抜け出すことはできなかった。その3カ月ほど前に「がん告知された。生物を勉強してきたから、病院でのCT画像を見て、深刻なものであることが分かった。病床からハラッパブラスのことで指示を出すことになるけれどよろしくね。」と。余命期間を知らされた私はただただ狼狽するばかり。どう受け止めていいものかもわからず、先生の苦しみが少しでも和らぐようにと祈り、とめどもなくあふれ出てくる涙を流すだけでした。先生と私の最後の友情の証となった「ハラッパブラス」、本当に二人で祝杯をあげたかった!!!

本葬の折、私が指揮した聖マリア大聖堂でのモーツアルト・レクイエムのCDによる楽曲を流して、御出棺の時を迎えてくださった。また後日の偲ぶ会でも私が指揮する管弦楽曲のCDを流して、たくさんの関係者をお迎えしてくださいました。ご家族の明田先生と私の絆を思ってのご配慮に深く深く感謝でした。

偲ぶ会でお話する機会を与ました。「ご家族の悲しみを思うと心が痛みます。でもここに集った方々もそうであるように、私の心の中でも明田功は生き続けます。そして先生の背中を追い続けます。先生と出会ったことに誇りを持ちながら。」と遺影の前でお別れの言葉を捧げました。私に続いて財団の後任となった濱野園長の「身近な死を知って、生かされていることを知る。」というお言葉に、先生を側面から支え続けた奥さまの昌子さま、仕事上でお力添えくださっている二人のお嬢様とも、私が生かされている限りお付き合いを願いたいと心から思ったのでした。

人生のどんな状況下でも真正面から真摯に受け止め、全力疾走された先生。ある人は言います。「生まれ落ちた時から、その人に与えられた仕事量は定められている。」 だとすると先生の人生は性急過ぎたのかもしれません。でも駆け足であっても先生の口から出てくるお言葉には常に「相手を思いやる愛」がありました。

人生を全うされた先生に献杯です。

 

富岡健

(明田功・八幡市長時代のツイッターはこちらです。https://twitter.com/aketaisao)