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なぎさ歩めば・・・公開レクチャーに寄せて

【京都合唱祭・・・公開レクチャーで伝えきれなかったこと。】
 
折角70名の参加者をえて、ロームシアター京都にお聴きくださった方々に恵まれた機会だったのに、いま、ふとお伝えきれなかった事を悔やむ思いがこみ上げてきました。
 
山之井愼の歌詞はこうです。
 
なぎさ歩めば
きこゆるは 遠き汐鳴り
せつなくも 胸をうつ
遠く過ぎし日
めくるめく ひかりの波に
声あわせ しぶきあげて
二匹の魚の
ほとばしる あの日の宴よ
なぎさ歩めば
なつかしき 夏の想い出うかぶ
 
さびしきあまき 愁い
はかなくも夢みたる
はるかな海原は
藍にかげろう
なぎさ歩めば
なつかしき夏の想い出うかぶ
はてしなき 想い出
 
私はこれを、古いアルバムを取り出して、いまやセピア色と化とした、あるいはすっかり色あせたカラー写真に「淡い幼い日々を回顧する」、というスタンスで臨みました。
 
多くの方々が「あいにかげろう」という詩を「愛にかげろう」と歌います。
 
「二匹の魚のほとばしる あの日の宴よ」は
若くぴちぴちした私と彼女を彷彿させるからでしょう。
 
しかし、こんなとらえ方もあることを残念なことにご披露できなかったことを悔やんでいるのです。
 
まだ若くてきれいだった母に手をひかれる幼子だった自分。
母は現役の女としていろんな思いや悩みを抱えていたに違いない。
そんなことを知る由もない幼い私は、母の手にひかれ、ただただ無邪気に海辺にはしゃいでいる・・・。
親の深い愛に支えられて、私は人生の「旅」に踏み出すことができたのだと・・・。
 
 
 
 

いのり追悼と新生 – 宗教者による神戸メッセージ・・・エキュメニカルの原点

初めて「たかとりカトリック教会」を訪れました。
2017年1月14日のエキュメニカルな祈りの集会の準備のためでした。
仕事の手を休めて、通りにでたすぐそこの教会掲示板に掲げられた一枚のポスターにくぎ付けになりました。写真を撮ったのですが、ガラスの反射でうまく撮れませんでした。そこで家に帰って検索をかけました。
するとこの教会の神田弘神父のサイトにたどりつきました。
私のエキュメニカルの活動の指標として心に刻んでおきたいと思います。
以下、転載させていただきます。
(記事のサイトはこちらです http://phknd.tea-nifty.com/phknd/1998/01/980117___5bc1.html)

1998年1月17日 (土)

いのり追悼と新生

いのり追悼と新生 – 宗教者による神戸メッセージ

突如襲った阪神・淡路大震災は、私たちに未曾有の被害と絶望をもたらしました。犠牲になられた方々への無念は尽きることがありません。それと同時に、残された私たちの日常も苦渋に満ちたものでした。生きることの苦しさを嫌というほど味わいました。しかし私たちは、それにもめげず微かな希望に支えられて、これまで生きてきました。その希望の源になったものは何か。それは自分の隣にいる人々との出会いそのものでした。

私たちは、不思議な体験をしました.成す術が分からない、そんなさ中にもお互い助け合うことができました。優しく声をかけることもできました。そこには普段、人と人とを隔てている壁のようなものは無くなっていました。隣との壁、国籍の壁、そして宗教の壁です。お互いが助け合うという自然にできた優しさが、そんな壁をも打ち壊したのです。そこには生きるために国籍や宗教の別は必要ありませんでした。生きていることそのものがすべてでした。

しかし、それは束の間の出来事でした。時がたつにしたがって街は少しずつ復興し、それと同時に人と人とを隔てている壁も戻ってきました。家族を越え、地域を越え、国籍を越え、そして宗教を越えて声を掛け合うことが難しくなってきました。つまり普段に少しずつ戻ってきたのです。

私たちすべての願いは地震から早<立ち直り、まちが復興することです。しかし今、復興という言葉にだんだんと取り残されてゆ<人々がいます。私たちは決してそんな仲間たちのことを忘れてはなリません。最後のー人が震災から立ち直るまで地震は終わらないからです。

私たちは宗教者として、今一度この3年を振り返り心を合わせたいと思います。自分が責任を持つ教団の利益や信徒への奉仕にのみ留まってはいなかったか、そして世に開かれた宗教の働きを、自らの生き方として担い得たかを、問い直すことから始めなければなりません。そこからひとりひとりが壁を取り払い、優しく声をかけ合い、わかち合えるひとづくり、まちづくりを目指してその働き(教化や布教、宣教)を担ってゆかねばならないと、こころざします。さらにまちが復興し、単に普段に戻ることを願うのではなく、地震の中で体験した不思議な出来事に希望をおき、新しい世を創ってゆくことを願いそしていのります。それが宗教者としての共通の使命と考え、そのことが犠牲になちれた方々への追悼となり、残された人々の新生となると固く信じるからです。

市民の皆さん、宗教を持つことは、一人一人の生き方が分けへだてられるのではなく、宗教の壁を越えて、つながり合いわかち合うことなのです。自由な選択の中で人がよりよ<生きる道を探す希望の宝箱を持つことなのです。また宗教者は、そのことを教えるだけの教師ではな<、共に考え共に歩む人生の仲問です。もし宗教を持つことがー人一人の心を狭<したり、他を排斥したり、権力や名誉に走るようなものであるならば、残念なことです。もしそうなら、それはそれぞれの宗教に携わっている私たち宗教者が、宗教による壁の中で、それぞれのしきたり等に心を奪われているところに問題があるようです。それを本来の宗教として私たちは理解したくありません。私たち宗教者も完全ではありません。被災地にあって復興を創ろうとするすべての人々と共に、震災を生きる者として、私たちも一つになりたいと願います。

地震に負けないで、勇気を持って新しい世を一緒につくってゆきませんか。

1998年1月17日
震災を生きる宗教者有志

合唱は楽しい  ナレーション原稿

【クリスマス物語 宮本ゆき牧師】

神は、天地創造の初めに「光あれ」と宣言されました。混沌の深い暗闇に光がありました。すべての命を照らす光です。

光は、今から2000年前、ユダヤの小さな町の近くで、夜通し羊の群れを守っていた羊飼いたちに顕れ、「あなたがたのために救い主がお生まれになった」、「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう」と告げました。そのとき、天空にさやかな歌声が響きわたりました。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心にかなう人にあれ」。

やがてこのできごとは多くの人々に宣べ伝えられ、人々はクリスマスがめぐってくるたびに、あの光を見たい、あの美しい調べを聞きたいと願い、賛美の歌を歌うようになりました。

(前奏と重なる)クリスマスは私たちの遠い昔と、今と、これからをひとつに結んでくれる絆です。

クリスマスの御子は、貧しく若い両親に見守られ、飼い葉桶に眠っていました。御子を訪ねてやってきた羊飼いたちは、汚れた仕事をする人、蔑まれるべき人だとされていました。幼子と、幼子を囲む貧しい人、弱い人、無力な人、そこに全ての人に贈られたクリスマスの光が輝きます。

クリスマスの御子は、生涯を、ひたすら神と人に仕え、そして人々に背かれ、嘲られ、私たちの悲しみと痛みを負って十字架につかれ、私たちの罪を購われました。

私たちの世界から、私たちの心から、闇が消えたことはありません。それでも聖書はこのように語りかけています。「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。

ひときわきらめく星に導かれ、遠い東の国から3人の占星術の学者がやって来ました。危険な旅と知ってなお、どうしてもクリスマスの御子に会いたい、と命がけの旅でした。御子を探し当てると、喜びに溢れ、礼拝し、贈り物をささげ、帰っていきました。

キリストは「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」と約束されています。キリストの光は消えることなく輝き続け、私たちが「世の光」となるよう励まし続けています。

(前奏と重なる)「初めに言があった。言は神と共にあった……言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている……わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」。

 

 

【幕間ナレーション】

本日はお寒い中お足をお運びくださいましてありがとうございます。

ここ旧京都会館は私にとっても青春の思い出がいっぱい詰まったホールでした。老朽化ということで建て替えが決定したときは、心が痛みました。国鉄の京都駅の建て替えが発表されたときのことを思い出しました。でもご覧のようにこのような素晴らしいホールが京都に与えられたことを心から喜んでいます。

2年半まえにロームシアター京都が16年の開館にあたり、その記念事業として小澤征爾先生のフィガロの結婚に続く「広く市民にアピールできるオープニング事業」が公募されました。私どもは、あまり期待もせず、ダメもとで「富岡健と創る新しい合唱表現」という企画書を恐る恐る提出いたしました。それが思いもかけず「ロームシアター京都オープニング記念事業」として取り上げられ今日の日をむかえることと相成りました。

どうぞ年の瀬のあわただしい日々ではございますが、私達の「合唱表現」をお楽しみいただければ幸いです。

プログラムを進める前に、皆様に喜びをもってご紹介させていただきたいお客さまがいらっしゃってくださっています。ニュースキャスターという名称がはじめて用いられ、関西の合唱界のみならず、クラシック音楽界をリードされている、音楽評論家、大阪音楽大学客員教授でいらっしゃる「日下部吉彦先生」です。先生ありがとうございました。

舞台の用意も出来たようです。ふじの花の「さわやかでしっとりとした演奏」とフラワーコーラスの「どこも真似ができない演奏」を続けて楽しみください。

大阪コンソートとカナリーによるクリスマスを祝ったステージでは、宮本牧師が天地創造の第一日目の「光」を語ってくださいました。そしてふじの花もまたみ仏の慈悲に満ちた「光」を歌ってくれました。そしてフラワーは恵みの中で「躍動する命」を表現してくれました。皆様、いかがだったでしょうか。

皆様にご報告がございます。私は谷本智子さんの「小さな幸せ」という曲と出会い、それを女声合唱・混声合唱・男声合唱と編曲し出版する機会を得ました。この曲との出会いは「音楽は人と人をむすびつけ、絆を深くする」ということを強く私に教えてくれました。そこでその思いをもっと積極的に社会にアピールしたいとの考えから「音楽の恵みネットワーク」を立ち上げ、この11月に幸いにも大阪市よりNPO法人として認可を得ることが出来ました。いくつかの事業を計画していますが、中でも「日本人による日本語のオペラをここ関西から世界に発信したい」と強く願っています。ついては皆様のご声援ご支援を賜りたく、本日ロビーに活動案内書をご用意いたしました。どうぞお持ち帰りください。富岡健応援団として、この活動にご参画いただければ幸いです。

ステージには滋賀男声がそろいました。本日は、豊かな感受性と想像力に富んだ青春を謳いあげようと南先生が作曲された「月下の一群」から3曲を、人生を重ねてきた者から若者へのメッセージとして歌いあげます。

河内長野 古典の日 講演原稿のメモ書き

11月4日ラブリーホールでの河内長野合唱文化祭のイヴェントとして「古典の日」の講師を務めます。講演内容のメモ書きです。

私ごとき、西洋音楽を生業としている者が「古典」を語る資格はないのですが、折角の機会を与えていただいたので、少し「古典と西洋音楽}という観点から、日ごろから考えていることを整理したいと思います。

まず最初にお手元にはございませんが、この歌をお歌いください。

「滝廉太郎・花」のピアノの前奏に続いて聴衆が歌う。
ーー日本で最初の合唱曲と言われています。
今までの日本伝統音楽伝承でない西洋音階のハーモニーを伴ったわが国最初の合唱作品です。
明治政府が導入した「西洋音楽教育」の初めての結実の作品です。
これまでの伝統音楽の記譜法ではなく、五線紙に音符という西洋音楽の記譜法にのっとった最初の合唱曲だったのです。

続いて荒城の月をお歌いください。

この2曲の共通項は何でしょう。
両方とも滝廉太郎の作品です。彼のことは後で述べることにします。

歌詞をいいながら皆で指を折ってみてください。そうです。どちらも七五調の歌詞ですね。
これは伝統文芸の中では、今様形式と呼ばれる謡物(うたいもの)の一つで、
この七五調の音の配列の歌はなんと平安時代の『古今和歌集』(こきんわかしゅう)に集められているのです。天皇の命により912年に編集された勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)です。

『古今和歌集』(こきんわかしゅう)の七五調の歌詞(今様形式)にみられる音の流れ、言葉のリズムの美意識が、とおく平安時代から現代の我々に脈々とDNAとして私達の心の中にあることを誇りをもって注目したいと思います。

明治時代の文明開化以降に作られた唱歌に多くみられます。
童謡「どんぐりころころ」
文部省唱歌「われは海の子」

平安時代から続くこの五七調をはじめとする謡物(うたいもの)は、日本の伝統音楽(邦楽)における一ジャンルで、長唄・地唄・小唄・都々逸などが含まれ、一方の「語り物」と呼ばれるジャンルには浄瑠璃があげられます。

これらの唱法の特徴を大きくのベると、
口を大きく開けない。母音母音の連結、そのために過度な子音を避ける・・・などがあげられます。
だから言葉がわかりずらいのです。
浄瑠璃やお能、日舞での長唄など初めて耳にした時にが言葉がわからず、
戸惑うのも無理ありません。
加えてこれらには西洋音楽ではない音律・・全音でも半音でなもない伝統的な微妙な音程の幅のとりかたも
伝統音楽の美意識の一つです。

伝統音楽の呂旋法と律旋法というのを中学時代に習いました。
四七抜きという音階です。ハ長調でいうとファとシを飛ばすのです。

呂旋法はラから始め、「わらべ歌」や「民謡」に多いので「民謡音階」と言われた。

律旋法はソから始めるのです。「君が代」や古い民謡で用いる「律(りつ)旋法」になるのです。明治のころに歌われた「蛍の光」をはじめとするスコットランドやアイスランド民謡の替え歌がすんなりと受け入られたのも、それらが「ヨナ抜き音階」であったからです。

もう一つ興味深い47抜き音階があります。それは「律旋法」からミファラシドという「都節(みやこぶし)音階」が生まれ、この音階を転回してラシトレ゙ミファソの第四音レと第七音ソを抜いたヨナ抜き短音階となる。哀愁を帯びたこの音階は、演歌に不可欠の音階として広く愛好されています。
ピアノで音階を弾いてもらいましょう。

とても日本の響きです。

しかし、これは西洋音楽様式にのっとったピアノの調律であって正確な伝統音楽の音階ではないのです。
例えば、「君が代」を歌ってみましょう。
皆が歌う音階は西洋音楽の正確な全音・半音ではないでしょう。
これも我々の美意識であるわけです。
お正月に宮中で行われる歌会始めをテレビでご覧になった方も多いかと存じます。
極端に引き延ばされた母音の流れ、伝統的な音程の抑揚など、
様式美にのっとって、見事に歌われる様に感心します。

またまた脱線します。
実はこの伝統的な音程・・全音半音でなく微妙な音程の幅が日本人の美意識であることが、
西洋音楽にのっとった合唱の場合困った要因となります。
正確な全音半音を取らないとハモラナイ。
例 夏の風物詩 金魚。さをだけ売り。豆腐屋さんのウリ声など。
ぜひ合唱を楽しんでいらっしゃる皆さんはこの点に注意を払っていただきたいのです。
日本の伝統音楽には、3度や4度や5度などでハモルことはなかったのです。
雅楽の笙や、お琴のハモリ、お三味線のハモリは明らかに西洋音楽のそれとは違うわけです。
「ふるさと」を口をあけないで息の流れだけでうたってみる。

日本人の美意識である音程が西洋音楽のハーモニー・メロディーを作るうえで
ことさら注意を払わなくてはならないことに加えて、
少し子音のことを考えてみたいと思います。

あえいおう、という母音の響きを大切にするそのために子音の扱いには吟味が必要です。
子音を発音するたびにせっかく美しく響かせた口の容積や形状が変わってしまうという
危険性と隣り合わせということを肝に銘じるべきです。

私達は音楽の3要素を学校で学びました。
メロディーの美しさ、ハーモニーの色彩感、リズムのや躍動感。
これらの集合体の音楽はグローバルな全人類が共有する喜びです。
音楽の3要素には言葉は入りません。
言葉のない器楽曲に感動し、
言葉を理解できないドイツやイタリアオペラに感動するのは、音楽の3要素が織り成す彩です。
私はよくこんなことを尋ねます。もし音楽の3要素にあえてもうひとつ加えるならばなんでしょうと。
私はこう答えます。「息遣いと息の流れ」。
前述の日本の伝統音楽には西洋音楽の3要素はありませんが、「息遣いと息の流れ」は大切な表現方法です。

これは音楽ばかりでなく、演劇にも共通する空間芸術と考えます。

ボニージャックス、ダークダックス、デュークエイセスの競演で気づき。

母音の流れ息の流れをまず大切にすれば、過度な子音を発音しなくても、
詩情を十分につたえられるという彼の共通した主張に触れることができたのは無類の喜びでした。
母音を邪魔しない子音の吟味。これはプロ歌手が作品に向かい合うときに最も時間とエネルギーを割いています。
話を滝廉太郎と荒城の月に戻します。

大政奉還後に樹立した明治新政府は富国強兵と文明開化の名のもとに、
身分・性別に区別なく国民皆学を目指した教育改革に乗りだしました。
音楽教育にあっては1879年に音楽取調掛を開設し、1890年に東京音楽学校 (旧制)が開校されます。
この年に入学したのが15歳の滝廉太郎でした。
同時に開校した東京美術学校がもっぱら伝統的な日本画中心の研究であったにもかかわらず、
音楽学校はドイツ音楽をはじめとする西洋音楽の導入一辺倒主義が中心で、
日本の伝統音楽は民衆の世俗的な娯楽であり、アカデミズムでないとの理由で片隅に追いやられました。
そんな教育環境の中で滝廉太郎は多感な時期を過ごします。
作曲とピアノ演奏でめきめきと才能を伸ばし、1900年にいま皆さんがお歌いくださった「花」と「荒城の月」が高い評価を得て、翌年の1901年(明治34年)4月、日本人の音楽家では2人目となるヨーロッパ国費留学生として選ばれることになります。
そしてライプツィヒ音楽院(設立者:メンデルスゾーン)に入学します。
彼がなぜライプツィヒを選んだかは後述します。彼が22歳のことです。

若き才能あふれる滝廉太郎。国からも未来を嘱望されていた彼ですが、
「花」も「荒城の月」も私には西洋音楽の導入一辺倒の明治政府の音楽教育に対して
彼なりの精一杯の反旗をひるがえした作品ではないかとの思いが捨て切れません。

ハンガリーは自国の遅れた音楽教育改革にと、まず着手したのが、
コーダイ・バルトークによる全国津々浦々に残るの伝承音楽を五線紙に書き写すことからはじまりました。
しかし日本の伝統音楽は世俗的で、アカデミズムでないとの理由で、
特に音楽教育の現場では自国で生まれ育んだ伝統音楽を軽んじ、
彼は怒りさえ覚えたように思えるのです。
だからこそ『古今和歌集』(こきんわかしゅう)から続く七五調の歌詞(今様形式)を手にした彼は、
なみなみならぬ意欲をもって作曲に取りくんだと確信するのです。

ところで「荒城の月」のモデルの城は?といのがよく話題になります。

モデルとなった城とされる場所は全国に5ヶ所あります。そのうち3つをご紹介すると、
大分県竹田市の岡城址・・・作曲者=滝廉太郎の出身地。

歌詞を書いた土井晩翠さんのの故郷である宮城県仙台市の青葉城。
かの伊達政宗(だてまさむね)が、もともと「千代」と書いて「せんだい」と呼んでいたこの地を、
「仙台」に書き改めたものだという事で、歌詞に出てくる「千代」は、仙台を暗に示しているとも言われ、
またここに登場する雁が、東北から北陸にかけての地方で越冬する渡り鳥である事も有力視される一因です。

会津若松鶴ヶ城。・・・白虎隊が自害を遂げた飯盛山には、白虎隊記念館があり、
その創立者が、「荒城の月作詞48周年記念音楽祭」なる物を企画し、
招かれた晩翠が、おもむろにこうスピーチしたのです。
「今、皆さんがたが歌ってくださった私の荒城の月の基は、皆さま方のあの鶴ヶ城です」。と。

これでこの論議は決定的な結論に達してしましました。しかし「荒城の月」のモデルの城は?はさほど大きな課題ではありません。滝廉太郎も土井晩翠もこの国を、そして、この国の歴史を愛する者の一人として、日本の各地に残る古城すべてに当てはまるように、その歌詞を作り曲を作ったに違いありません。だからこそ、歌詞だけでは、どの城かが特定できない仕上がりになっているのでしょう。全盛期も、荒廃した姿も、ともに美しい日本の城・・・。 人が、その姿に感動するのは、この国に天下泰平の世を造り上げんと命を賭けた戦国時代の先人たちの勇姿を、そこに見る事ができるからなのです。

自分が感動したように、日本のすべての人が、日本の各地の古城を見て感動してほしい・・・晩翠と廉太郎のそんな思いが伝わってくるような気がします。

こんな美しい歌が音楽の教科書から消えるのは残念です。楽しいだけではない「日本の心」が刻み込まれています。どうか、その「心」を大切に、いつまでも歌い継がれて欲しいものです。

滝廉太郎は23歳で結核のため亡くなりました。結核という理由で、彼の作品や遺品のほとんどが焼却されたとのことです。彼の無念を思うと心が痛みます。しかし、彼にとって大きな救いが20年ほど前に発見されました。それはカトリック教徒と東方正教徒の融合を目指すエキュメニカルな活動をするベルギーの修道院で「荒城の月」にロシア語の歌詞がつけられて「ケルビム賛歌」という名の聖歌として歌われていることがわかったのです。『荒城の月』の旋律に潜む不思議な静けさと平安に、修道院の人に「たましいの深い動き」と、祈りと愛を感じとったいうことです。滝廉太郎が『荒城の月』を書いたのはドイツ留学前。このころ彼は東京麹町のイギリス聖公会で洗礼を受けていたのです。「彼がキリスト教に入信を志していたころにこの曲が作られたのは興味深く、イエスの愛に触れたとき、今まで経験したことのない平安、心の安らぎを感じたのではないか」と言われています。彼がわが国2番目の国費留学生として選んだ渡航先がライプツィヒ。そこは音楽の父、宗教音楽の大家、ヨハンセバスチャンバッハの街だったからなのです。

またまた余談ですが、滝廉太郎の親族には熱心なクリスチャンがいました。彼の妹もそうでした。その孫がTBSのニュース番組のメインキャスターを務めたジャーナリストの筑紫哲也(ちくし てつや)。彼もまたクリスチャンでした。筑紫自身はかつて「私には音楽の才能がないので、『私の大叔父が瀧 廉太郎』であるということを非常に戸惑っている」と述懐しています。しかし彼は早稲田大学時代はグリークラブの一員として私達と同じように合唱を愛した人でした。

ここにこの曲の真理を2つ見つけることが出来ました。一つは「西洋音楽の導入一辺倒の明治政府の音楽教育に対する密やかな反旗」。もう一つはクリスチャンとして「世の平安、心の安らぎの曲」。今一度そのような思いを心に覚えてこの曲をご唱和ください。

最後に現在の日本でも、明治政府の西洋音楽一辺倒の音楽教育に反旗を翻している教育組織があることをご存知ですか。

宮内庁の楽師の養成機関です。楽師さんたちは皇室の公式行事では雅楽を担う一方、欧米の国賓をお迎えしての晩餐会では燕尾服を着てオーケストラに変わるのです。雅楽で使われる専門的な楽器の習得のほかオーケストラの楽器を一つ、それにピアノとソルフェージュが課されるとのことです。

その時どきに変わる政権が決める方向性に迎合することなく、宮内庁は頑なに伝統を重んじる。これもまた興味深いことです。

つたない講演にご傾聴たまわり、ありがとうございました。

またもや細川ガラシアと出会いました。

僕の行くところ行くところに明智光秀とお玉がいます。
2000年まで向日市にいました。隣町の長岡京市が細川忠興・ガラシャ夫妻が盛大な結婚式を挙げ、新婚時代を過ごしたという地に勝龍寺城を復興する話が突然でて、あっという間に完成されました。

亀岡に引越して市役所に住民登録の為に訪れると、その地が明智光秀の領地であったこと、そして民から尊敬された名将の誉れ高い方であったことを初めて知りました。(小学校・中学校では主君織田信長に謀反を起こした反逆者としか教えられていませんでした。)。

また岐阜の県立高校から吹奏楽部の指導を頼まれ5,6年通いました。その地のすぐそこに光秀出生の地ともいわれている明智城がありました。

そして数年前からプロテスタントとカトリックの枠を超えて音楽を通して共に祈ろうとカトリック大阪の大司教様のお許しを得て、玉造カトリック教会聖マリア大聖堂でのエキュメニカルな祈りのコンサートを始めました。その地がなんと熊本細川藩のお屋敷跡で、ガラシア自決の地とも知らずに。

高山右近が治めた高槻と明智光秀の治めた亀岡を結ぶ直線上のちょうど中間点の山深いところに「隠れキリシタン集落」があり、いまその地には茨木市立隠れキリシタン博物館」があります。それも拙宅から車で10分もかかりません。光秀も右近からキリスト教の影響をうけたのではという思いから、光秀がキリシタン大名だったと主張する文献を求めて、亀岡の郷土文化資料館やら市史編纂室を訪れましたが、一笑に付されてしまいました。娘お玉は父がマリア像に向かって祈る姿を見たからこそ、自らもイエスに救いを求めたのではないかとの思いが捨てきれないのです。数年前フジテレビ系列で放送された天海祐希演じる「女信長」というドラマで安土セミナリオで光秀がオルガンを奏でるシーンに、拍手したことでした。

4,5日前のことです。私と同じくする教会(日本基督教団茨木春日丘教会・安藤忠雄の光の教会)の方から電話を頂きました。「私の先輩で熊本放送のプロデューサーをされ、芸術祭賞も何度となく受賞されている方が、定年を迎え、自分の最後の仕事だということで戯曲の台本が送られてきました。これをぜひ富岡さんに見てもらいたい。」という内容でした。

それがなんと細川ガラシアの半生を描いた台本だったのです。台本を読み進めるうちにオペラでの舞台が私の頭で浮かんできました。私はこの台本作家にお電話し、いつの日にかオペラにしたい旨お伝えし、私の申し出を歓迎してくださいました。

近い将来、室内オペラ「細川ガラシア」を制作発表したいと希望が膨らんでいます。できれば右近がバチカンから福者と認定されたお祝いの2017年中に。

もし昔ご一緒させていただいた皆川達男先生がお元気だったら、隠れキリシタンのオラショの資料提供をお願いできれば、という願いもございます。これも97年のNHKTVのドラマ「鏡は眠らない」で歌われたオラショが印象的で、そのドラマでの音楽監修が皆川先生だったのです。(どなたか録画されていたらお貸しいただきたいです。オンデマンドのリストにもなければDVD化もされていないのです。)

多くの困難を多くの仲間と支援者を巻き込んで(?)、一緒に乗り越えて実現させてたいものです。

新年おめでとうございます。hpも復旧しました。

15年賀状

昨年も皆様から多くの恵みをいただいた一年でした。
ありがとうございました。

今年はリニューアルオープンする京都ロームシアターで
① リーダークランツのOB会が主催するオーケストラと男声合唱による
ワーグナー「タンホイザー」の演奏会
② 私が関係する合唱団が一堂に会して
「新しい合唱の息吹・・合唱って楽しい」での
シアターピース「ファンタジー・オペラ座の怪人」の初演。
と2つの公演がございます。
また 兵庫県三田でのメサイア公演。
滋賀男声合唱団のびわ湖ホールでのリサイタル
ふじの花の京都コンサートホールのリサイタル・・・

詳細はおってお知らせいたしますので、ご支援をよろしくお願いいたします。

尚、年賀状のコーラージュ(上記)は
昨年のハイライトシーンの抜粋です。
① 竹下清志ジャズトリオとの協演(フラワーコーラスのリサイタル)
② 合唱団大阪コンソートSSAの初出場から3年連続の優秀賞の賞状
③ 奈良県大芸術祭での奈良フィルハーモニーとの
フォーレ・レクイエム(オーケストラ練習風景)
④ 大阪カテドラル聖マリア大聖堂でのモーツアルト・レクイエム
⑤ 初めて訪れたヴァチカンのミケランジェロ作のピエタ像です。