なぎさ歩めば・・・公開レクチャーに寄せて

【京都合唱祭・・・公開レクチャーで伝えきれなかったこと。】
 
折角70名の参加者をえて、ロームシアター京都にお聴きくださった方々に恵まれた機会だったのに、いま、ふとお伝えきれなかった事を悔やむ思いがこみ上げてきました。
 
山之井愼の歌詞はこうです。
 
なぎさ歩めば
きこゆるは 遠き汐鳴り
せつなくも 胸をうつ
遠く過ぎし日
めくるめく ひかりの波に
声あわせ しぶきあげて
二匹の魚の
ほとばしる あの日の宴よ
なぎさ歩めば
なつかしき 夏の想い出うかぶ
 
さびしきあまき 愁い
はかなくも夢みたる
はるかな海原は
藍にかげろう
なぎさ歩めば
なつかしき夏の想い出うかぶ
はてしなき 想い出
 
私はこれを、古いアルバムを取り出して、いまやセピア色と化とした、あるいはすっかり色あせたカラー写真に「淡い幼い日々を回顧する」、というスタンスで臨みました。
 
多くの方々が「あいにかげろう」という詩を「愛にかげろう」と歌います。
 
「二匹の魚のほとばしる あの日の宴よ」は
若くぴちぴちした私と彼女を彷彿させるからでしょう。
 
しかし、こんなとらえ方もあることを残念なことにご披露できなかったことを悔やんでいるのです。
 
まだ若くてきれいだった母に手をひかれる幼子だった自分。
母は現役の女としていろんな思いや悩みを抱えていたに違いない。
そんなことを知る由もない幼い私は、母の手にひかれ、ただただ無邪気に海辺にはしゃいでいる・・・。
親の深い愛に支えられて、私は人生の「旅」に踏み出すことができたのだと・・・。
 
 
 
 

河内長野 古典の日 講演原稿のメモ書き

11月4日ラブリーホールでの河内長野合唱文化祭のイヴェントとして「古典の日」の講師を務めます。講演内容のメモ書きです。

私ごとき、西洋音楽を生業としている者が「古典」を語る資格はないのですが、折角の機会を与えていただいたので、少し「古典と西洋音楽}という観点から、日ごろから考えていることを整理したいと思います。

まず最初にお手元にはございませんが、この歌をお歌いください。

「滝廉太郎・花」のピアノの前奏に続いて聴衆が歌う。
ーー日本で最初の合唱曲と言われています。
今までの日本伝統音楽伝承でない西洋音階のハーモニーを伴ったわが国最初の合唱作品です。
明治政府が導入した「西洋音楽教育」の初めての結実の作品です。
これまでの伝統音楽の記譜法ではなく、五線紙に音符という西洋音楽の記譜法にのっとった最初の合唱曲だったのです。

続いて荒城の月をお歌いください。

この2曲の共通項は何でしょう。
両方とも滝廉太郎の作品です。彼のことは後で述べることにします。

歌詞をいいながら皆で指を折ってみてください。そうです。どちらも七五調の歌詞ですね。
これは伝統文芸の中では、今様形式と呼ばれる謡物(うたいもの)の一つで、
この七五調の音の配列の歌はなんと平安時代の『古今和歌集』(こきんわかしゅう)に集められているのです。天皇の命により912年に編集された勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)です。

『古今和歌集』(こきんわかしゅう)の七五調の歌詞(今様形式)にみられる音の流れ、言葉のリズムの美意識が、とおく平安時代から現代の我々に脈々とDNAとして私達の心の中にあることを誇りをもって注目したいと思います。

明治時代の文明開化以降に作られた唱歌に多くみられます。
童謡「どんぐりころころ」
文部省唱歌「われは海の子」

平安時代から続くこの五七調をはじめとする謡物(うたいもの)は、日本の伝統音楽(邦楽)における一ジャンルで、長唄・地唄・小唄・都々逸などが含まれ、一方の「語り物」と呼ばれるジャンルには浄瑠璃があげられます。

これらの唱法の特徴を大きくのベると、
口を大きく開けない。母音母音の連結、そのために過度な子音を避ける・・・などがあげられます。
だから言葉がわかりずらいのです。
浄瑠璃やお能、日舞での長唄など初めて耳にした時にが言葉がわからず、
戸惑うのも無理ありません。
加えてこれらには西洋音楽ではない音律・・全音でも半音でなもない伝統的な微妙な音程の幅のとりかたも
伝統音楽の美意識の一つです。

伝統音楽の呂旋法と律旋法というのを中学時代に習いました。
四七抜きという音階です。ハ長調でいうとファとシを飛ばすのです。

呂旋法はラから始め、「わらべ歌」や「民謡」に多いので「民謡音階」と言われた。

律旋法はソから始めるのです。「君が代」や古い民謡で用いる「律(りつ)旋法」になるのです。明治のころに歌われた「蛍の光」をはじめとするスコットランドやアイスランド民謡の替え歌がすんなりと受け入られたのも、それらが「ヨナ抜き音階」であったからです。

もう一つ興味深い47抜き音階があります。それは「律旋法」からミファラシドという「都節(みやこぶし)音階」が生まれ、この音階を転回してラシトレ゙ミファソの第四音レと第七音ソを抜いたヨナ抜き短音階となる。哀愁を帯びたこの音階は、演歌に不可欠の音階として広く愛好されています。
ピアノで音階を弾いてもらいましょう。

とても日本の響きです。

しかし、これは西洋音楽様式にのっとったピアノの調律であって正確な伝統音楽の音階ではないのです。
例えば、「君が代」を歌ってみましょう。
皆が歌う音階は西洋音楽の正確な全音・半音ではないでしょう。
これも我々の美意識であるわけです。
お正月に宮中で行われる歌会始めをテレビでご覧になった方も多いかと存じます。
極端に引き延ばされた母音の流れ、伝統的な音程の抑揚など、
様式美にのっとって、見事に歌われる様に感心します。

またまた脱線します。
実はこの伝統的な音程・・全音半音でなく微妙な音程の幅が日本人の美意識であることが、
西洋音楽にのっとった合唱の場合困った要因となります。
正確な全音半音を取らないとハモラナイ。
例 夏の風物詩 金魚。さをだけ売り。豆腐屋さんのウリ声など。
ぜひ合唱を楽しんでいらっしゃる皆さんはこの点に注意を払っていただきたいのです。
日本の伝統音楽には、3度や4度や5度などでハモルことはなかったのです。
雅楽の笙や、お琴のハモリ、お三味線のハモリは明らかに西洋音楽のそれとは違うわけです。
「ふるさと」を口をあけないで息の流れだけでうたってみる。

日本人の美意識である音程が西洋音楽のハーモニー・メロディーを作るうえで
ことさら注意を払わなくてはならないことに加えて、
少し子音のことを考えてみたいと思います。

あえいおう、という母音の響きを大切にするそのために子音の扱いには吟味が必要です。
子音を発音するたびにせっかく美しく響かせた口の容積や形状が変わってしまうという
危険性と隣り合わせということを肝に銘じるべきです。

私達は音楽の3要素を学校で学びました。
メロディーの美しさ、ハーモニーの色彩感、リズムのや躍動感。
これらの集合体の音楽はグローバルな全人類が共有する喜びです。
音楽の3要素には言葉は入りません。
言葉のない器楽曲に感動し、
言葉を理解できないドイツやイタリアオペラに感動するのは、音楽の3要素が織り成す彩です。
私はよくこんなことを尋ねます。もし音楽の3要素にあえてもうひとつ加えるならばなんでしょうと。
私はこう答えます。「息遣いと息の流れ」。
前述の日本の伝統音楽には西洋音楽の3要素はありませんが、「息遣いと息の流れ」は大切な表現方法です。

これは音楽ばかりでなく、演劇にも共通する空間芸術と考えます。

ボニージャックス、ダークダックス、デュークエイセスの競演で気づき。

母音の流れ息の流れをまず大切にすれば、過度な子音を発音しなくても、
詩情を十分につたえられるという彼の共通した主張に触れることができたのは無類の喜びでした。
母音を邪魔しない子音の吟味。これはプロ歌手が作品に向かい合うときに最も時間とエネルギーを割いています。
話を滝廉太郎と荒城の月に戻します。

大政奉還後に樹立した明治新政府は富国強兵と文明開化の名のもとに、
身分・性別に区別なく国民皆学を目指した教育改革に乗りだしました。
音楽教育にあっては1879年に音楽取調掛を開設し、1890年に東京音楽学校 (旧制)が開校されます。
この年に入学したのが15歳の滝廉太郎でした。
同時に開校した東京美術学校がもっぱら伝統的な日本画中心の研究であったにもかかわらず、
音楽学校はドイツ音楽をはじめとする西洋音楽の導入一辺倒主義が中心で、
日本の伝統音楽は民衆の世俗的な娯楽であり、アカデミズムでないとの理由で片隅に追いやられました。
そんな教育環境の中で滝廉太郎は多感な時期を過ごします。
作曲とピアノ演奏でめきめきと才能を伸ばし、1900年にいま皆さんがお歌いくださった「花」と「荒城の月」が高い評価を得て、翌年の1901年(明治34年)4月、日本人の音楽家では2人目となるヨーロッパ国費留学生として選ばれることになります。
そしてライプツィヒ音楽院(設立者:メンデルスゾーン)に入学します。
彼がなぜライプツィヒを選んだかは後述します。彼が22歳のことです。

若き才能あふれる滝廉太郎。国からも未来を嘱望されていた彼ですが、
「花」も「荒城の月」も私には西洋音楽の導入一辺倒の明治政府の音楽教育に対して
彼なりの精一杯の反旗をひるがえした作品ではないかとの思いが捨て切れません。

ハンガリーは自国の遅れた音楽教育改革にと、まず着手したのが、
コーダイ・バルトークによる全国津々浦々に残るの伝承音楽を五線紙に書き写すことからはじまりました。
しかし日本の伝統音楽は世俗的で、アカデミズムでないとの理由で、
特に音楽教育の現場では自国で生まれ育んだ伝統音楽を軽んじ、
彼は怒りさえ覚えたように思えるのです。
だからこそ『古今和歌集』(こきんわかしゅう)から続く七五調の歌詞(今様形式)を手にした彼は、
なみなみならぬ意欲をもって作曲に取りくんだと確信するのです。

ところで「荒城の月」のモデルの城は?といのがよく話題になります。

モデルとなった城とされる場所は全国に5ヶ所あります。そのうち3つをご紹介すると、
大分県竹田市の岡城址・・・作曲者=滝廉太郎の出身地。

歌詞を書いた土井晩翠さんのの故郷である宮城県仙台市の青葉城。
かの伊達政宗(だてまさむね)が、もともと「千代」と書いて「せんだい」と呼んでいたこの地を、
「仙台」に書き改めたものだという事で、歌詞に出てくる「千代」は、仙台を暗に示しているとも言われ、
またここに登場する雁が、東北から北陸にかけての地方で越冬する渡り鳥である事も有力視される一因です。

会津若松鶴ヶ城。・・・白虎隊が自害を遂げた飯盛山には、白虎隊記念館があり、
その創立者が、「荒城の月作詞48周年記念音楽祭」なる物を企画し、
招かれた晩翠が、おもむろにこうスピーチしたのです。
「今、皆さんがたが歌ってくださった私の荒城の月の基は、皆さま方のあの鶴ヶ城です」。と。

これでこの論議は決定的な結論に達してしましました。しかし「荒城の月」のモデルの城は?はさほど大きな課題ではありません。滝廉太郎も土井晩翠もこの国を、そして、この国の歴史を愛する者の一人として、日本の各地に残る古城すべてに当てはまるように、その歌詞を作り曲を作ったに違いありません。だからこそ、歌詞だけでは、どの城かが特定できない仕上がりになっているのでしょう。全盛期も、荒廃した姿も、ともに美しい日本の城・・・。 人が、その姿に感動するのは、この国に天下泰平の世を造り上げんと命を賭けた戦国時代の先人たちの勇姿を、そこに見る事ができるからなのです。

自分が感動したように、日本のすべての人が、日本の各地の古城を見て感動してほしい・・・晩翠と廉太郎のそんな思いが伝わってくるような気がします。

こんな美しい歌が音楽の教科書から消えるのは残念です。楽しいだけではない「日本の心」が刻み込まれています。どうか、その「心」を大切に、いつまでも歌い継がれて欲しいものです。

滝廉太郎は23歳で結核のため亡くなりました。結核という理由で、彼の作品や遺品のほとんどが焼却されたとのことです。彼の無念を思うと心が痛みます。しかし、彼にとって大きな救いが20年ほど前に発見されました。それはカトリック教徒と東方正教徒の融合を目指すエキュメニカルな活動をするベルギーの修道院で「荒城の月」にロシア語の歌詞がつけられて「ケルビム賛歌」という名の聖歌として歌われていることがわかったのです。『荒城の月』の旋律に潜む不思議な静けさと平安に、修道院の人に「たましいの深い動き」と、祈りと愛を感じとったいうことです。滝廉太郎が『荒城の月』を書いたのはドイツ留学前。このころ彼は東京麹町のイギリス聖公会で洗礼を受けていたのです。「彼がキリスト教に入信を志していたころにこの曲が作られたのは興味深く、イエスの愛に触れたとき、今まで経験したことのない平安、心の安らぎを感じたのではないか」と言われています。彼がわが国2番目の国費留学生として選んだ渡航先がライプツィヒ。そこは音楽の父、宗教音楽の大家、ヨハンセバスチャンバッハの街だったからなのです。

またまた余談ですが、滝廉太郎の親族には熱心なクリスチャンがいました。彼の妹もそうでした。その孫がTBSのニュース番組のメインキャスターを務めたジャーナリストの筑紫哲也(ちくし てつや)。彼もまたクリスチャンでした。筑紫自身はかつて「私には音楽の才能がないので、『私の大叔父が瀧 廉太郎』であるということを非常に戸惑っている」と述懐しています。しかし彼は早稲田大学時代はグリークラブの一員として私達と同じように合唱を愛した人でした。

ここにこの曲の真理を2つ見つけることが出来ました。一つは「西洋音楽の導入一辺倒の明治政府の音楽教育に対する密やかな反旗」。もう一つはクリスチャンとして「世の平安、心の安らぎの曲」。今一度そのような思いを心に覚えてこの曲をご唱和ください。

最後に現在の日本でも、明治政府の西洋音楽一辺倒の音楽教育に反旗を翻している教育組織があることをご存知ですか。

宮内庁の楽師の養成機関です。楽師さんたちは皇室の公式行事では雅楽を担う一方、欧米の国賓をお迎えしての晩餐会では燕尾服を着てオーケストラに変わるのです。雅楽で使われる専門的な楽器の習得のほかオーケストラの楽器を一つ、それにピアノとソルフェージュが課されるとのことです。

その時どきに変わる政権が決める方向性に迎合することなく、宮内庁は頑なに伝統を重んじる。これもまた興味深いことです。

つたない講演にご傾聴たまわり、ありがとうございました。

またもや細川ガラシアと出会いました。

僕の行くところ行くところに明智光秀とお玉がいます。
2000年まで向日市にいました。隣町の長岡京市が細川忠興・ガラシャ夫妻が盛大な結婚式を挙げ、新婚時代を過ごしたという地に勝龍寺城を復興する話が突然でて、あっという間に完成されました。

亀岡に引越して市役所に住民登録の為に訪れると、その地が明智光秀の領地であったこと、そして民から尊敬された名将の誉れ高い方であったことを初めて知りました。(小学校・中学校では主君織田信長に謀反を起こした反逆者としか教えられていませんでした。)。

また岐阜の県立高校から吹奏楽部の指導を頼まれ5,6年通いました。その地のすぐそこに光秀出生の地ともいわれている明智城がありました。

そして数年前からプロテスタントとカトリックの枠を超えて音楽を通して共に祈ろうとカトリック大阪の大司教様のお許しを得て、玉造カトリック教会聖マリア大聖堂でのエキュメニカルな祈りのコンサートを始めました。その地がなんと熊本細川藩のお屋敷跡で、ガラシア自決の地とも知らずに。

高山右近が治めた高槻と明智光秀の治めた亀岡を結ぶ直線上のちょうど中間点の山深いところに「隠れキリシタン集落」があり、いまその地には茨木市立隠れキリシタン博物館」があります。それも拙宅から車で10分もかかりません。光秀も右近からキリスト教の影響をうけたのではという思いから、光秀がキリシタン大名だったと主張する文献を求めて、亀岡の郷土文化資料館やら市史編纂室を訪れましたが、一笑に付されてしまいました。娘お玉は父がマリア像に向かって祈る姿を見たからこそ、自らもイエスに救いを求めたのではないかとの思いが捨てきれないのです。数年前フジテレビ系列で放送された天海祐希演じる「女信長」というドラマで安土セミナリオで光秀がオルガンを奏でるシーンに、拍手したことでした。

4,5日前のことです。私と同じくする教会(日本基督教団茨木春日丘教会・安藤忠雄の光の教会)の方から電話を頂きました。「私の先輩で熊本放送のプロデューサーをされ、芸術祭賞も何度となく受賞されている方が、定年を迎え、自分の最後の仕事だということで戯曲の台本が送られてきました。これをぜひ富岡さんに見てもらいたい。」という内容でした。

それがなんと細川ガラシアの半生を描いた台本だったのです。台本を読み進めるうちにオペラでの舞台が私の頭で浮かんできました。私はこの台本作家にお電話し、いつの日にかオペラにしたい旨お伝えし、私の申し出を歓迎してくださいました。

近い将来、室内オペラ「細川ガラシア」を制作発表したいと希望が膨らんでいます。できれば右近がバチカンから福者と認定されたお祝いの2017年中に。

もし昔ご一緒させていただいた皆川達男先生がお元気だったら、隠れキリシタンのオラショの資料提供をお願いできれば、という願いもございます。これも97年のNHKTVのドラマ「鏡は眠らない」で歌われたオラショが印象的で、そのドラマでの音楽監修が皆川先生だったのです。(どなたか録画されていたらお貸しいただきたいです。オンデマンドのリストにもなければDVD化もされていないのです。)

多くの困難を多くの仲間と支援者を巻き込んで(?)、一緒に乗り越えて実現させてたいものです。

元八幡市長・京都府会議員 明田功先生を偲んで

明田先生アメリカ留学を終えてもすぐに音楽活動だけで、というわけにはいかなかった。そんな折、洛星高校の関係者が経営する予備校と塾で英語を教えることになった。先生方のほとんどが洛星高校から京大卒、という経歴の優れた頭脳集団でした。そこで教務主任として講師指導も担当していたのが明田功先生でした。農学博士という学位もお持ちでした。小学生から高校生までどの教科もOK、授業も面白いと生徒からの人気もすごかった。

何ということでしょうか。今年の2月に、当時の女子中学生から30年ぶりにお手紙が舞い込んできました。その中で明田先生のことがこのように綴られていました。
「明田先生も 小学生での一生忘れられない先生のお一人です! 早速 先生の記事やツイッターを2時頃まで読み~ おかげで昨夜は南京都学館の様々な夢を見ました。明田先生の顔写真を発見してもうそのまんま!懐かしくて叫んでしまいました。 当時から先生のてっぺんは髪の毛が淋しかったので? 髪の両サイドのボ リュームが減っただけで。 私は、先生の大ファンで セサミストリートのカウント伯爵に似ているので、切 り抜きを渡したことがありました。 明田先生が、理科の授業で細胞壁の話になった時、人間には細胞壁は無い~という話 から「本当は人体の勉強がしたかったのに どうしてもかなわず、結局、植物の科に入ったが、 今でも人体のレベルの学問がしたいんだ… 」と悔しそうにぼやかれていたのも覚えて います。  当時、明田先生は独身でおられたので「きっと塾の先生やと、給料が安いから結婚できへんのちゃうか~」 などと、小学6年の我々女子どもが好き勝手言ってたのです、ホントに失礼極ま りなく…。  明田先生のツイッターから、4人のお子さんに、お孫さんまでおられることも分かり もう70歳になられたのですね(@_@;) 自分が50なのだから仕方ないのですが …。 私が小6前の春休みに、勝手に母が入塾を申し込んでおり、嫌々怒りながら行き始めたところが、 明田先生の真顔で非常に面白可笑しく説明され、かつ浸み入るように分かる授業テ クニックにたちまち魅了され 学校より塾の授業の方が楽しくなり、 当時の南京都学館は、教えのプロ集団と言うか明田先生も 富岡先生も一般の人と何か違う、勢いやオーラが溢れ人を惹きつ ける特別な方でした! やはり、それぞれそのオーラのまま、さらに大きな世界で御活躍だったんですね。 明田先生や、富岡先生がずっと教えておられたら、今頃東進ハイスクー ル並みの規模になっていたのでしょう。 やはり、指導者の力量で、同じ教科書でも生徒の伸びが全く違います。」

私はこの手紙を第2日赤の病床にいた先生にお届けしました。「よく覚えているもんだな」としみじみと、嬉しそうに読み進められていました。

余談ながら、奥さまの昌子さまとの出会いも、この塾でのことでした。昌子さまは先生の教え子でもあり、のちにこの塾で事務職としてお務めだったのです。

この塾が予備校として学校法人化されてまもなく先生はここでの職を辞され、紫野・船岡山のご実家、京田辺、宇治の小倉、そして八幡市で自ら塾を立ち上げて、理想の教育の場を求めつつ、経営者としても手腕を発揮されました。私といえば、大阪芸術大学から指揮法の講師としてお声掛けいただき、プロとしてなんとか独り立ちできる環境を得ました。お互いに別々の道を歩み始めてまもなく、突然、明田先生が京都府会議員に立候補という話が飛び込んできたのです。政治家としてはアマチュアなのに?と思いながらも選挙事務所に一升瓶掲げて陣中見舞いをと出かけました。しかし残念なことに選挙事務所まであとわずかというところで、明田先生が窓から身を乗り出して手を振る選挙カーとすれ違うことになってしまいました。このすれ違いから20数年、年賀状のやり取りだけで、府会議員、八幡市長時代はお会いすることはありませんでした。いや先生の政治家としての激務の日々をお邪魔してはならぬと自重したのでした。ただ一度、向日市長の久島さんと明田先生が同席した折に、私の話が出たようで、二人して代わる代わるお電話でお話くださいました。久島さんは私が立ち上げた長岡京市民管弦楽団のメンバーだったのです。

公職から解放され、久しぶりにご自宅に招かれました。開口一番「昌子と一緒にでかけたヨーロッパのアルバムを見てよ。」と膨大な量の写真を拝見。それはヨーロッパ各地の名所ばかりでなく、アルプスでのトラッキングの写真も多く含まれていました。「昌子には何もしてあげれなかった。罪滅ぼしのつもりで、思いっきり二人で楽しんできたよ。」という語る先生のおやさしいお顔は忘れられません。京都府会議員、八幡市長時代のお話など全く話題にはなりませんでした。先生の中では「燃えつくした政治家」として、もはや過去の話など門外漢の私を相手に口にしたくなかったのでしょう。「これからはゆっくり過すよ。ある大学からのお誘いもあるけれど・・・」

にもかかわらず今年の1月に突然「城陽の木津川運動公園に来てよ」との電話。広大なハラッパでした。「この公園の指定管理者の理事長になった。ここでブラスバンドのフェスティバルをしようと思う。アイディアをだしてプロデュースしてよ。」と。

5月の当日は前日までの激しい雨もあがり、晴天のもと3000人もの動員があり、初めてのイヴェントとしては大成功でした。しかしこの日も先生は病床から抜け出すことはできなかった。その3カ月ほど前に「がん告知された。生物を勉強してきたから、病院でのCT画像を見て、深刻なものであることが分かった。病床からハラッパブラスのことで指示を出すことになるけれどよろしくね。」と。余命期間を知らされた私はただただ狼狽するばかり。どう受け止めていいものかもわからず、先生の苦しみが少しでも和らぐようにと祈り、とめどもなくあふれ出てくる涙を流すだけでした。先生と私の最後の友情の証となった「ハラッパブラス」、本当に二人で祝杯をあげたかった!!!

本葬の折、私が指揮した聖マリア大聖堂でのモーツアルト・レクイエムのCDによる楽曲を流して、御出棺の時を迎えてくださった。また後日の偲ぶ会でも私が指揮する管弦楽曲のCDを流して、たくさんの関係者をお迎えしてくださいました。ご家族の明田先生と私の絆を思ってのご配慮に深く深く感謝でした。

偲ぶ会でお話する機会を与ました。「ご家族の悲しみを思うと心が痛みます。でもここに集った方々もそうであるように、私の心の中でも明田功は生き続けます。そして先生の背中を追い続けます。先生と出会ったことに誇りを持ちながら。」と遺影の前でお別れの言葉を捧げました。私に続いて財団の後任となった濱野園長の「身近な死を知って、生かされていることを知る。」というお言葉に、先生を側面から支え続けた奥さまの昌子さま、仕事上でお力添えくださっている二人のお嬢様とも、私が生かされている限りお付き合いを願いたいと心から思ったのでした。

人生のどんな状況下でも真正面から真摯に受け止め、全力疾走された先生。ある人は言います。「生まれ落ちた時から、その人に与えられた仕事量は定められている。」 だとすると先生の人生は性急過ぎたのかもしれません。でも駆け足であっても先生の口から出てくるお言葉には常に「相手を思いやる愛」がありました。

人生を全うされた先生に献杯です。

 

富岡健

(明田功・八幡市長時代のツイッターはこちらです。https://twitter.com/aketaisao)

モーツアルト・レクイエム・・・教会音楽は教会で。

20150429flyer完成版表_02一昨年のフォーレのレクイエムを、
大阪カテドラル聖マリア大聖堂で献奏する機会に恵まれて以来、
教会音楽は教会で!という主張はますます強くなり、今や確信となりつつあります。
考えてみればごく当たり前なことです。
バッハもモーツアルトも教会に集う信者・非信者のために作品を残したのですから。

しかし簡単にはいきません。
いまの日本のキリスト教会の多くは、
社会に開かれた教会を標榜されてはいるのですが、
たとえ宗教音楽の演奏であっても大切な祈りの場を提供するには
大きなためらいがあるようです。
でも私は基督教会にとってこれほど有効な布教・啓蒙活動はないと思うのです。
敷居が高いと思われている教会に招き入れることができるのですから・・・。

ヴェルディやベルリオーズなどの一部の作品を除いて
多くの宗教作品を演奏する為には
合唱団、ソリスト、そしてオーケストラが必要なと全く同じレベルで、
教会という聖霊に満ちた空間があってこそ初めて成立するものと考えます。
私と合唱団大阪コンソートのモーツアルト・レクイエムが、
聖マリア大聖堂を与えられ、エキュメニカルな祈りに用いられ、
「震災犠牲者」のために用いられる導きに感謝します。

プログラム最後に[AVE VERUM CORPUS]を配しました。
会場にお集まりくださった皆様もご一緒に賛美していただこうとの思いです。

次にチラシ裏面を記します。是非クリックいただいて、私たちのこの演奏会に寄せる思いを
ご拝読いただきたく存じます。

チケットのご用命は下記にお進みください。
http://consort.ken-music.net/ticket.html

チラシ裏1040

滋賀男声の勉強をしていたら・・・シナトラと出会った!!

2月21日の滋賀男声のリサイタルのためのお勉強をしていました。
チャイコフスキー作曲の歌曲「ただ憧れを知る者だけが」を
調べているうちに、この曲をフランクシナトラが3回も
録音していることを知りました。
下のyoutubeはそのうちの1945年盤のものです。
彼の渋くてさみしい表現は、鑑賞に値します。
悲愴の最終楽章のイントロもしゃれています。
お楽しみください。

 

None but the lonely heart
Can know my sadness
Alone and parted
Far from joy and gladness
Heaven’s boundless arch I see

Spread about above me
O what a distance dear to one
Who loves me
None but the lonely heart
Can know my sadness

My senses fail
A burning fire
Devours me
None but the lonely heart
Can know my sadness

どれも、孤独の心
私の悲しみを知ることができます。
一人さびしく
遠くからの喜び
天国の果てしないアーチを私は見る。
私の魂から離れ
親愛な方はどんなに遠くにいるのでしょう
誰が私を愛してください。
どれも、孤独の心
私の悲しみを知ることができます。

私の感覚は朽ち。
燃える火
私を食い尽くす
どれも、孤独の心
私の悲しみを知ることができます。

(この訳については全く無責任です。富岡)

 

 

Nur wer die Sehnsucht   kennt,
唯一    熱望・憧れ   知っている
Weiß,      was ich leide!
わかってください     苦しむ

   ただ憧れを知る者だけが
わたしの苦しみをわかってくれるのです

Allein und abgetrennt von  aller Freude,
一人で      切り離される     すべての
Seh’ ich ans Firmament nach jener Seite.
天空     その 方向に そばで

   あらゆる喜び、幸せから隔てられ
私ははるか遠くの青い空を見つめています

Ach! der mich liebt und kennt,
愛す   知っている
Ist in der Weite.
遠い

   ああ! 私を愛し、わかってくれる人は
どこかわからない遠い所にいる

Es schwindelt mir,es brennt
ふらふらする      火傷
Mein Eingeweide.
深い想い

   そう思うと私は気が遠くなり
胸をかきむしられるのです

30年ぶりの戴冠ミサでした。(10/8朝日新聞記事追加)(9/30 奈良新聞記事追加)

10/8追加 朝日新聞の記事をNPO地創研の成田様よりお送りいただきました。
合唱フェスティバル(朝日報道10月)_4809/30追加 コンソートの八張さんから奈良新聞の切り抜きをいただきました。narashinnbunこれより以下9月24日投稿の本文です。

img016地域創造政策研究センターの主催の演奏会に招かれ
モーツアルトの戴冠ミサを指揮する機会に恵まれました。
30年前、まだ合唱というフィールドだけで活動をしていた頃と
今の自分との違いを知る機会ともなりました。
モーツアルトの主要オペラは暗譜で指揮できるまでに経験を重ね・・・
オーケストラコントールの実践の場を数多く与えられ・・・
14年前に洗礼を授かり・・・
これらの結実として今回の演奏ができたように思ったことでした。
そして何よりうれしかったことは、
モーツアルトの譜面の向こうに、彼の肉声が聞こえてきたように
思えたほどにモーツアルトを近くの人に思えた事でした。

 IMG_20140922_170302120人のコーラスの皆様からは「今までの宗教音楽の概念を覆されました」
、そして奈良フィルハーモニーの皆様からは「なさりたい音楽がよく伝わります」
とのお言葉が、合唱練習3日間、オーケストラ練習90分、
オーケストラ合わせ120分というタイトな状況の重圧から
私を喜びに導いてくださいました。
NPO法人の皆様、プロデュースくださった池田光政先生との絆に感謝です。
若いソリストの皆様の献身と出会いにも感謝です。
そして応援に駆けつけてくださった皆様に心からお礼申し上げます。

当日のアンコール曲「小さな幸せ」をロビーで販売を!
という池田先生の発案でしたが、
何と用意していた100冊が完売という事態となりました。ありがたいことです。

とてもいい音楽会に恵まれました。

滋賀男声の長谷川さんから写真をお送りいただきました。
ありがとうございました。

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秋ちかし

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我が家の姉も色ずいてまいりました。
(茨木のり子)
スマートフォンでも投稿できるように、
wordpressのプラグインにツールを追加。
これで少しはこのブログの更新がましになるかと
ひそかに期待です。

JA茨木市の広報誌 「プリマベーラ」9月号の取材を受けました

茨木農協の機関紙プリマベーラ」の取材を受けました。
場所は茨木春日丘教会を指定したのですが、
インタビューを受けているうちに、
山荘の近くの銭原の朝市での写真を撮りたい、ということになり、
日を改めて写真取材となりました。

担当者の岡村様には大変お世話になりました。
山荘でのガーデニングのご指導をお願い申し上げました。